わたしがなぜ、コレを書いているか?
この話は2200年前に雲南であった日本人とタイ人の同じ話だとわかったからです。
輪廻です
Love forever contained
人はいつまで生きれるかわからないので、記事が完成してませんが、写真の方だけでも発表しておきます。
Asoke violinist 世界一の報道カメラマンを目指していた頃の写真 だが、両刀使いのわたしは記事の方で世界一になった。しかし、世界は何も変わらなかった。日本人の紀元前の姿を追った取材ではない。わたしのほんとうの仕事はミャンマーで起こっている。そして、もう一つ。
世界から最も愛される東南アジアの拠点都市バンコク。最大規模の観光都市が観光客から隔絶され、いったいどうやって生きて行ったのか?
そこで起こっていたドキュメンタリーを記録した。
100年後の人のために!
バンコク悲恋物語で記録だけ一時、発表した記事ですが、これが「バンコク永遠に封じ込められた愛」の記事です。
Love forever contained
Soi Cowboy
王の言葉と不朽の「クーカム」
わたしは最高学府の名に冠されていたチュラロンコーンが王の名前から由来しているのを駐在1カ月目に知った。
チュラロンコーン
タイ王国の運命が激動したのは、チュラロンコーン王(ラーマ5世)、ラーマ6世の時代だった。1890年頃。
フランスとイギリスなど世界の列強がインドシナの覇権を目指し植民地化に凌ぎを削っていた頃のことだ。
当時、ベトナムはフランスに占領され、
イギリスはミャンマーとマレーシア半島を支配していた。
シャム王国もこの列強に切り崩される様に見えた。
しかし、
チュラロンコーン王は、この難局をイギリスにはマレーシアの一部を割譲。
フランスにはカンボジアとラオスを譲渡する事で、サイアムの独立を守ったのだった。
知恵でシャム王国の未来を築き、建国の父の役割を果たした。
1999年、アメリカの『タイム』誌で、「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」の1人にタイ人から唯一選ばれた。
英仏両国は、SIAM(現在のタイ)を緩衝地帯として三方にとって衝突しない方が得策だった。
チュラロンコーン王は現在のタイ王国の礎を築き、57歳で亡くなったが、彼は祖国を守った王として最高学府大学に名を残す。
列強のインドシナの占有ぶりを見て、ラーマ6世、7世は当時、最も文化が進んでいたイギリスへ留学させ、国の近代化に早くから目を向けさせることが、タイ王室の教育方針になった。
しかし、イギリスに滞在中に客死するタイ国の王もいた。
その系譜を引いてワチラロンコーン王子もドイツを滞在地とし、生活の基盤をドイツに置いたのだった。
それは近代化を終えて東南アジアの拠点にまで成長したタイには、もはや必要な留学ではなく、世俗には遊興にしか映らなくなっていた。
これがラーマ10世ワチラロンコーン王の王室問題に発展する。
タイ語には英語に訳せない言葉がある。
世界に配信された王の言葉
「タイは妥協の国だから」
この意味は、意を汲むなら、「チュラロンコーン王のように、戦いをするよりは、譲り合い、平和でいよう!」というメッセージだったのだ。
わたしのタイ紀行は、バンコクやイサーンに残る面白い慣習や風俗を捉える事から、タイ人の考え方、背後にある上座部仏教の考え方を少しづつだが理解しようとする段階に来ていた。
姿勢を正さないと見えない精神世界がそこには横たわっていた。
イギリス、フランスに続き、アメリカがロシアとインドシナの覇権を競って、何が起こった?
ベトナムはその犠牲になったのだ。
タイは戦争よりも妥協点を探りながら、粘り強く話し合いで、戦争を回避してきたのだった。
その国の姿勢は、タイの国民的に愛された小説をベースにした「クーカム」(運命の人)にも描かれていた。
そう、日本軍人小堀とタイ娘の悲恋を描いた永遠に残る話。
それは映画になっているので、あなたも観る事が出来る。
かつて、日本人がタイで尊敬された理由がそこに残されていました。
悲恋 SAD STORY
題名はタイ名「クーカム」(
時は太平洋戦争前夜。
この両国に侵攻するためには、
近くで果樹園を営む親子。娘の名は
村長が彼女の説得に訪れました。
やがて彼女は妊娠しますが、
1973年にタイで初めて映画化され、
その後
その後のタイ国の歴史です。
「自
そして、
日タイの美しき友情関係は崩れ始めていた❗️
https://m.youtube.com/watch?v=bDHShyS7zHo
わたしが唯一出来た事は、日本に住み続けている日本人が持っていた10ー20年前の虚像を修正する記事を報道仲間たちと連発する事だけだった。
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