ReuterJapanNews’s Dialy

バンコク駐在記者。ヤンゴンからチン州ミンダットに転戦。国際NGOと連携して国軍の攻撃から逃れる難民を救おうと頑張っています。

イサーンの悲劇 奴隷にされたイサーン人 解放したラーマ5世

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ラオの勇者アヌウォン王

奴隷となったラオの民はイサーン人

 


ラーマ1世は、ビエンチャンの長男に朝貢国としての統治権を与え1804年に、

その弟アヌウォンが王位に就いた。


アヌウォンは勇猛でミャンマーからの侵略軍を叩き、シャムへの忠誠心を見せた。


ラーマ1世の期待通り働き、信頼を得ると、ラーマ2世の時代には、ビルマとの戦いで大きな戦果を挙げた。アヌウォンはシャム文化や芸術を吸収し、ビエンチャンを発展させた。



ところが、ラーマ3世の時代、ラオ人農民に入れ墨を施し強制労働させるなど、目に余るシャム同化政策にラオ人の怒りが高まる。


これが今もイサーン娘たちが、成人前後に背中や太腿、二の腕に入れ墨をする慣習の背景にある。


タイ人ではなく戦争捕虜、奴隷の地位に置かれていたのだ。



また、アヌウォンがラーマ2世の葬儀に参列した際の無礼な扱いは屈辱的だったという。




怒りに震えたアヌウォン!


ついにアヌウォンはシャムに反旗を翻す。

ラオ独立を目指し蜂起する。


1826年、南下を始めたラオ軍はコラート高原の掌握を目指す。


ところが当時イギリスと条約を結び、軍備、情報共に優位に立っていたシャム軍の返り討ちに遭う。

 退却。

コラート高原を奪われ、1827年、ビエンチャン南に築いた最後の砦も破られる。

美しい都は陥落。そして、

壊滅。


王宮も民家も略奪され焼き払われた。



アヌウォンはついに捉えられ、移送中に死んだという。



別の説ではバンコク王宮前広場で監禁、溺死刑により見せしめ状態で息を引き取ったという?


いずれにせよ、タイ国内のラオ語の資料が消えているので最期はわからなかった。


しかし、この戦いがラオとラオスの運命を変えた!


その後、ふたたび数十万のラオ人がシャムに強制移住させられ、過酷な労働と差別の中を生きなければならなかった。


シャムに牙を剥いたアヌウォンは、タイで反逆者だが、ビエンチャンでは属国からラオ世界の独立を目指した英雄である。ビエンチャンにはアヌウォンの銅像が立っている。


ナショナルスタジアムにその名を冠して、ラオスは彼を祖国の誇りとして讃える。



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熱帯のシェイクスピア


イサーン奴隷を解放した偉大な王

農奴と性奴隷にされたイサーン人





 戦争捕虜として最初に20万人規模でイサーンに連れて来られた人々。

赤茶けた土地を耕して生きて行くしか無かった。家と言っても小屋の様な物で、畑と家は豪雨により氾濫するメコン河の猛威になす術もなく、多くの季節(四季はない)は雨乞いに費された。

それがイサーンに残るロイクラトーン、ロケット祭りであり、ソンクラーン


蓄えもなく何世代も奴隷状態が続いたのは、日系人がブラジルやハワイに移民したのと同じ様に厳しい生活。


そうした中、生まれたのが、自然の森の中に棲む神への信仰。ピーであったりシャーマニズムである。農業で生きる事が厳しいスリンは象の群れが今も住む。畑に適さないからだ。

黒魔術が信仰されるのは、そういった布石があり、超自然的な力を持ちたいという願いにも似た信仰が今も息づいている。


スリンの生まれの娘の中には、大嘘つきや強欲な、ほのぼのとした性格を持つ人も未だにいる。一部だが、そんな貧しい人たちはビエンチャンへ出稼ぎに行く。


中にはバンコクにも。

「スリンの女には気を付けろ」というタイ人は本当に霊力を持った女がいる事を信じていた。





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だが、タイの王も偉大な人物がいた

奴隷解放を行ったチュラロンコーン王(ラーマ5)

日本人は勝手な固有名詞を作るから、惑わされる海外の日本人は多い。

ラーマ5世では、現地では通じない。


ファラムハーッ!



これが分からなかったため、イサーンの奴隷の取材は難航した。


チュラロンコーン王が偉大な王と呼ばれた訳


即位するとすぐに欧米に視察旅行をしてタイの立ち後れを実感しチャクリー改革と呼ばれる数々の改革を行った。タイ三大王のうちの一人で今でも国民から人気が高い。


彼こそがイサーンの奴隷を全て解放して、タイの国民にした王だった。


それまでは農園に奴隷、土地が買えず、何世代に渡って奴隷としての人生を歩んで来たラオの民(イサーン人)2000万人。

農奴、性奴隷、商業奴隷、土木奴隷、船員奴隷など、タイ発展最底辺を支えて来た。


なぜ、イサーン農家の長女や次女は必ず都会や観光地へ出稼ぎに行き、家に仕送りしたのか?


その風習には哀しい過去があった。


これはわたしが突き止めた哀しい奴隷哀史だった。


チュラロンコーン王の在位 1868101日ー19101023



その改革は、

  • 公然と行われていた奴隷売買を長年かけて廃止した。このためダムロン王子から、歓喜大王พระปิยมหาราชเจ้า)と献名された。アナンタサマーコム宮殿に奴隷解放の絵が残る
  • 各地の王を廃止し中央集権国家を作り上げた
  • 議会制度の前身となる国政協議会と枢密院を設置
  • 学校教育を開始
  • ラーチャダムヌン道路とその周辺を整備しバンコクからナコーンラーチャシーマーまで列車を通した
  • 電話業務を開始



写真はデモの真実を語る 
イサーンの歌 モーラムとルクトゥーンは、遥か北にあった祖国を想う歌だった。

バンコクデモの真相 同じ国民として、平等にチャンスが与えられてないと思った人々は、、。




熱帯のシェイクスピアより