ReuterJapanNews’s Dialy

バンコク駐在記者。ヤンゴンからチン州ミンダットに転戦。国際NGOと連携して国軍の攻撃から逃れる難民を救おうと頑張っています。

天才レオナルド•ダ•ビンチはなぜ未来の技術を知りえたのか?

 

2000年に一度、現れるレベルのギフティッド。なぜ、ひとりだけ、その謎を追った

 

 

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、人生の最後の3年間をクロ・リュセ城で過ごし、自らの学生らとともにフランス王のための多くのプロジェクトに取り組みました。

 シャンボール(Chambord)城の建築家でもあったドミニク・コルトン(Dominique de Cortone)をはじめ、王国高官、各国の大使やイタリアの芸術家の友人をそこに招待していました。

 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)は、1519年5月2日にクロ・リュセ城の部屋で亡くなりました。

 

 

 

 ダ・ヴィンチコペルニクスに先駆けること20年、地球が太陽を回っている地動説を遺稿に記していたのだ。

1543年5月24日コペルニクスは70歳でこの世を去っていた。その年が地動説の発表年。ダビンチこそが世界初だった。1600年を過ぎてガリレオ・ガリレイが宗教裁判にかけられてた。ブルーノは火刑に処せられた。ダビンチの異常な時代を超越した能力は奇怪ですらある。

コペルニクスの天球に回転

 晩年に『天球の回転について』を著し、当時主流だった地球中心説天動説)を覆す太陽中心説地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる(ただし、太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前三世紀のサモスのアリスタルコスである)。

 

   1543年-1519年=24年前 

 

 ダビンチは画家、建築、天文学、数学、音楽家、医学、生物学、彫刻、発明・・・・その活動分野は多岐にわたっています。 

かつて一人の人間の中で、これほど多彩な才能が結び合わされたことはありません。後代に残した遺産ははかり知れません。 

 

今日はダ・ヴィンチが発明したものを紹介したいと思います。 

 

 1965年に発見された「マドリッド遺稿」と呼ばれるレオナルド・ダ・ヴィンチの手稿の裏側にはなんと自転車の絵が描かれていました。 

それを形にしたのが写真の自転車です。その上の図は潜水艦です。

 

チェーンを発明したのもダヴィンチで、彼はチェーンのスケッチをかなり精密に描いています。 

しかし、その当時チェーンの製造技術がなかったので、この素晴らしい発想も当然実現することができなかったのです。 

自動演奏機

 

 

 感の働く人はピンと来たはず😭

 

 

 

コンタクトレンズの原理もダヴィンチの発明といわれています。 

1508年レオナルド・ダ・ヴィンチが視力矯正器具としてのコンタクトレンズのアイデアを考案しました。 

 


この絵は、ダヴィンチの素描の中でも特に有名なものであり、現在のヘリコプターの祖先と考えられています。 

過去にレオナルドの描いたヘリコプターの図案が全日空の飛行機の垂直尾翼にデザインされていました。

 


パラシュートを発明したのもダヴィンチです。 

ロンバルディア湖上空を飛行する計画の中で、墜落の危険を避けるために考案されたものです。7mの大きさにして実際に降下に成功した青年がいます。

 この絵の横に、

「1辺が12ブラッチャ(ブラッチャ=腕の長さ)で、高さもそれと同じ大きさの布製テントを持っていれば、どんなに高いところから飛び降りてもけがをすることはない。」

と、書かれていますが、😭

装甲戦車

 

狙撃用強弓

巨大投石機

分解し運べる移動橋

イモラの地図と呼ばれる手稿は、政治家で軍人でもあったチェーザレ・ボルジアの依頼を受け、都市イモラの測量を行い、地図を制作しました。

この地図は縮尺も正確で衛星地図だったため現在の地図の制作につながったと言われており、ダ・ヴィンチは「地図の父」の1人に

 

史上初の潜水艦の概念図


 Machinegun2 

 

 

 

 

マシンガンも彼の発明です。 

ダヴィンチは、銃を同時に何発も発射できるように、扇状に並べたものを考案しました。 

さらに、連射できるようにラックを回転させる銃を考案しました。

 

あとは、ボールベアリング、馬や人力によって動く装甲戦車、クラスター爆弾、潜水艦、歯車を用いた史上初めての機械式の計算機、バネの動力で動く自動車などなど上げるとキリがないほどの発明をダヴィンチはしました。 

彼が後代に残した遺産ははかり知れません。

 

「スウィング ブリッジ(旋回橋)」も

 

 

 

 

  おかしい事に気づきましたか?

史上最高値で落札されたサルバトール・ムンディ。死後500年経過してもダビンチは世界最高の画家であることを知らしめました。

 

 

 

 

フィレンツェ

 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)は、フィレンツェ共和国(イタリア)・トスカーナのヴィンチ村近くのアンキアーノで生まれました。

 

 父親は裕福な公証人で、母親は小作農の娘でした。二人は結婚していなかったため、レオナルドはアンキアーノ村で母親と暮らしていました。その後レオナルドが5歳の時に母が職人と結婚したため、レオナルドは父親に引き取られ、ヴィンチ村に住むことになりました。

 

 その頃、父親はアルビエラ・アマドーリと言う名の16歳の娘と結婚していました。二人には子供がいなかったため、アルビエラはレオナルドを我が子のように可愛がりましたが、ダヴィンチが13歳の時に死んでしまいます。

 

 1466年頃、14歳になったダ・ヴィンチは、当時フィレンツェで最大級のアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に弟子入りしました。当時のヴェロッキオの工房にはピエトロ・ペルジーノ、ドメニコ・ギルランダイオなどの優秀な弟子が大勢いました。

 

 20歳のダ・ヴィンチは、師匠のヴェロッキオと共に「キリストの洗礼」「受胎告知」を制作しました。

ダ・ヴィンチはこのころ同性愛で訴えられています。証拠不十分で無罪になりましたが、生涯浮いた噂もなく、結婚もしていないため、本当に同性愛だったのではないかと言われています。

 

 26歳のダ・ヴィンチは、ヴェロッキオから独立して最初の作品となる「ブノアの聖母(The Benois Madonna )」カーネーションを持つ聖母(The Madonna of the Carnation)」を制作しています。

 

1482年、30歳のダ・ヴィンチは、ミラノを統治しているルドヴィーコスフォルツァ(Ludovico Sforza)の要請でミラノに渡り、スフォルツァ家の宮廷画家兼技術者となりました。彼は、絵画、彫刻から軍事デザインや舞台演出まで担当し、その後17年間ミラノで活躍することになります。

 

 ミラノ時代の代表作は、ルドヴィーコ公の依頼でサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁に描いた「最後の晩餐」(1495〜1498)です。

 

 

1482年、30歳のダ・ヴィンチは、ミラノを統治しているルドヴィーコスフォルツァ(Ludovico Sforza)の要請でミラノに渡り、スフォルツァ家の宮廷画家兼技術者となりました。彼は、絵画、彫刻から軍事デザインや舞台演出まで担当し、その後17年間ミラノで活躍することになります。

 

 ミラノ時代の代表作は、ルドヴィーコ公の依頼でサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁に描いた「最後の晩餐」(1495〜1498)です。

 

そのほかに、最近絵画史上最高値で落札された「サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi )」、「聖アンナと聖母子(Madonna and Saint Anne)」、現存しないレダと白鳥」などをフィレンツェで制作しています。現存の「レダと白鳥」は弟子による模写です。

 

 

 

 

1506年、50歳を過ぎたダ・ヴィンチは再度ミラノに拠点を移しています。この頃から精力的に解剖を行うようになりました。

 

 また、自画像(このページの一番最初の絵)を描いたのもこの時期です。しかし、この自画像は50代には見えません。一説ではダ・ヴィンチ本人ではなく、ダ・ヴィンチの80代の叔父を描いたものではないかと言われています。

 

 その後、1513年には仕事を求めてローマに移りました。この頃の代表作は「洗礼者ヨハネ(St.John the Baptist)」です。しかしながら、ローマでもミケランジェロラファエロなどの若手の台頭で仕事からあぶれてしまいました。

1516年、傷心のダ・ヴィンチは、フランス王フランソワ1世の招きでイタリアを捨て、フランスへと移住しました。64歳でした。

 

 1519年、67歳のレオナルドはフランスで息を引き取りました。ヴァザーリによれば、レオナルドはフランソワ1世の腕の中で死んだことになっています。



 

最後に1800年前に発見した人類史上初の男

 

 

ギリシア天文学の中には、アリストテレスの理論では、遊星の動きを説明できないことに気がついた人々もいた。遊星(火星や金星など)は実際には地球と同じく太陽を回っているので、地球から見ると他の恒星と異なって単純な軌道を描かない。そのことはバビロニアの古代人も気がついていたが、ギリシア人はさらに精密に観測し、前3世紀のヘレニズム時代のアレクサンドリアで活動したアリスタルコスは、遊星の動きをアリストテレスの説では説明できないとして、太陽は動かず地球がその周りを回っているという地動説を主張した。しかしアリストテレスの宇宙観は依然として権威であったため、アリスタルコスの説は忘れ去られ、さらにローマ時代の紀元後2世紀、同じくアレクサンドリアプトレマイオスは、当時の最高水準での天体観測の結果として、地球を中心として太陽その他の天体がその周りを回転しているという天動説を詳細に論じ、それが定説とされるに至った。

 

 

1500年後

ポーランド人のコペルニクス(1473-1543)であった。彼は聖職者でありながら天体観測を続け、1543年に『天体の運行について』という主著を刊行した。彼はその書で、太陽は宇宙の中心にあって動かず、地球が太陽の廻りを年に1度の周期で回転、さらに1日に1回、自転を行っていると主張した。

地動説に対する弾圧

 コペルニクスはその年に病死したが、この地動説を体系的に述べたこの書は天文学者に大きな影響を与え、ジョルダーノ=ブルーノ(1548-1600)は地動説を発展させて、太陽でさえ不動のものでなく動いているという宇宙観に到達し、危険思想として1600年に教会の手によって異端の烙印を押され、処刑された。さらにガリレイ(1564-1642)は、初めて本格的な望遠鏡を作成して天体観測を続け、コペルニクスの説をデータの上で証明した。しかし教会によって裁判にかけられ、1616年にその著作とともにコペルニクスの書も教会の禁書目録に入れられてしまった。

 

 

 

ダ・ヴィンチの睡眠時間はたったの90分

 4時間毎に15分ほどの睡眠をとっていたようですが、夜に眠る時間が90分、ショートスリーパーであったのでしょう。

 

 アインシュタインは10時間寝てましたけど😭

 

 

 

 

コペルニクスの魂の著書

 

コペルニクス、ブルーノ、ガリレオを動かしてた。ダビンチの遺稿。すべてがnoteに記されている。推定で50-120冊あった。すべてを弟子に託した。一度も陽の目を浴びなかった兵器や時代を追い越した設計図。

26冊の行方を追った。ビルゲイツが驚嘆する額で1冊購入していた。残りの幾つかは、、。

あの

ユダはいったい誰なんだ?

 

レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿(以下、ダ・ヴィンチ・ノート)の複製版をすべて揃えると、その価格は、

19,167,840円

本物ではないコピーなのに、2千万円近い値段がつくとは驚きです。

現存する直筆のダ・ヴィンチ・ノートの多くは、由緒ある美術館や図書館に所蔵され、めったに公開されることはありません。

入手した人名や場所、形状にちなんで、いろんな名前のノートがあります。

アトランティコ手稿

アランデル手稿

フォースター手稿

マドリッド手稿

パリ手稿

解剖手稿

鳥の飛翔に関する手稿

など

 

これまで門外不出だったダ・ヴィンチ・ノートも、近年動きがありました。

イギリスの大英図書館が所蔵するアランデル手稿は、2017年に、ダ・ヴィンチの英知を普及させようと、オンライン上で公開に踏み切りました。

同じく、ヴィクトリア&アルバート美術館も、

2018年に、フォースター手稿をオンライン上で公開を開始しています。

個人では唯一ビル・ゲイツが天体の考察を主としたレスター手稿保有していますが、

オークションの際に、28億4千万円で落札しています。そして、この金額はオークション史上最高落札価格となりました。ビル・ゲイツは、世界のどこかで毎年1回公開をしています。

現存しているダ・ヴィンチノートは、全部で約8,000ページですが、

1ページあたりで換算すると、本物のノートは、少なく見積もっても3000億円の価値があります。

 

なぜそこまで価値があるのかというと、天才が書き残したノートであり、実際に、もしもっと早く世の中に知れ渡っていれば、ノーベル賞級の研究が書かれているからです。たとえば、解剖手稿というノートで、

心臓の部屋が4つあると発見したのは、

ダ・ヴィンチが世界で最初でした。(それまでは2つと考えられていた)

 

#レオナルドダビンチ #発明 #絵画 #新刊 #映画脚本

 

この記事は「事象の地平線」のΩcodeの一部です。結論をかいていません。一度、消えます

 

事象の地平線』 Simon Simoncen著