フーシェフーの湖底から浮かびある
2300年前の日本人「精神の形」
屈 原(Qūyuán) 人名
楚(Chu)での仕事
楚文字を駆使する歴史家で随一の学者、詩人でもあった男。屈が氏。
その死を悼んで城郭に刻まれた文字が「孝 節」。
屈 原を日本人が音訓の間違ったカナをふろるため、無理矢理カナに落とすと、チュ・ユァンが一番近い事を明記しておきます。氏が屈、名が原。
策略に陥れてた
秦(秦氏)の素性 大和朝廷に灌漑、土木の技術をもってやってきた秦氏です。漢に滅ぼされ遅れて日本に到達したユダヤ人の末裔と称する一族。
屈原 Qūyuán
北タイ探検記45
楚(Chu)の国の国王の側近に、屈原(Qūyuán、前340頃~前278頃)という政治家がいました。
王族であることが後にわかりました。王の血筋です。
政治家、詩人でもあった彼はその正義感と国を思う情は強く、人々の信望を集めていた。しかし、屈原は秦王国の陰謀を察知、「同盟を結ぼう」というのは、秦の国王「懐王」の話は策略と引き止めます。
しかし、楚王はこれに耳を貸さず秦に出向き幽閉され、死去。
その時の想いを歌った長編叙事詩「離騒(りそう)」は中国文学史上、不朽の名作と言われています。
故国の行く末に失望した屈原は、汨羅(べきら、また日本人が嘘の読み方を)という川に身を投げてしまったのです。
・楚 の国民達は、小舟で川に行き,太鼓を打ってその音で魚をおどし、さらにちまきを投げて,「屈原」の死体を魚が食べないようにしました。
その日が中国の年中行事になり、へさきに竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事が生まれたそうです。
これは今日のドラゴンレース(龍舟比賽)の始まりとも言われています。
これがちまき(肉粽=ローツォン)の起源です。
このようなエピソードから、毎年命日の5月5日の屈原の供養のために祭が行なわれるようになり、やがて中国全体に広がっていったのです。
5月5日 日本の子供の日です。そして、日本の靖国神社へとつなっがていました❗️
国と人民に尽くした屈原の政策は、死んだ後もいっそう人々に惜しまれ、多くの粽(ちまき)を川に投げ入れて、国の安泰を祈願する風習に変わって行きます。
・そして、その風習は、病気や災厄(さいやく)を除ける大切な宮中行事、端午の節句となったと言われています。三国志の時代に端午の節句は、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められ、やがて日本にも伝わって行った。
日本の北九州、出雲に到達した人々は楚王国の民だった!
我が子を戦いに行かせる?
武士にとって兜や鎧は身を守るための道具。
武力を止めるのは武しかないのが真実。文字の中にもそう書き残されている。それすら分からない人は滅ぼされる。
これらを飾ることは、病気や事故などから男児を守り、困難に勝ち、丈夫に成長してほしいという願いが込められていました。
詳細
屈原は、中国戦国時代の楚の政治家、詩人。姓は羋、氏は屈。諱は平または正則。字が原。秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。春秋戦国時代を代表する詩人としても有名である。
出生地: 丹陽
死亡日: 紀元前278年6月27日 現在の, 中華人民共和国 岳陽県
両親: Qu Zhang
ラテン字: Ch'ü1 Yüan
発音転記: チュ ユェン
屈 原(Qūyuán、紀元前340年1月21日頃 - 紀元前278年5月5日頃)は、中国戦国時代の楚の政治家、詩人。姓は羋、氏は屈。諱は平または正則。字が原。
羋 Mi
招魂 (楚辞)
主要な説明
英語から翻訳-Summons of the Soul、Summoning of the Soul、Zhao Hunは、古代中国の詩集、Chu Ciで詩集化された詩の1つです。 「魂の召喚」は4部構成の詩で構成されています。最初の部分は数行で構成されており、残りの詩と明確な関係はありません。
招魂祭
しょうこんさい
内容
招魂祭は日本の陰陽道・中国の道教で行われる祭祀・呪術のひとつ。宮中でも行われた。 近代に新しく招魂社・靖国神社などで死者に対して始められた「招魂祭」については靖国神社参照。
靖国神社の前身というのは、長州の招魂祭的なものだったと記憶れている。故郷を離れて死んだ人間の魂は、再び故郷に戻ってくるべきだという。
それ故に、おっぱい揉み祭りなどが雲南の楚雄市に残っていた。それを2000年後、日本人が祭りを否定、Google検索がトップ表示。日本人の歴史に棺桶の蓋をしてしまった。
これら日本人の歴史でもっとも鮮やかな瞬間は「アメリカの情報公開法」の期限が解けた事から、明らかになった日米開戦の真実。日本人がいかに情報戦に弱いかという事です。
それは今も同じです。
中国の道教
道教では死者に対しても招魂祭を行う。
但し、復活の儀式ではない。
たとえば紀元前の戦国時代 (中国)の『楚辞』には宋玉の「招魂篇」では罪なく奸人に追われて死んだ屈原を偲び、その魂の離散を恐れ、呼び戻す為に行われている。
『楚辞』九歌の「国殤」には「身既に死して神以て霊・魂魄毅として鬼雄となる」とある。
現在でも死んでから1~3年後に常設の「神主(しんしゅ)」(儒教でも用いる。仏教の位牌にあたるもの。)に名前を記し、新たな先祖として祀る。
すると、一種の鬼でありつつ、子孫の幸福・安全を守る先祖となるとされる。
招魂
『楚辭』宋玉
朱明承夜兮,
時不可以淹。
皐蘭被徑兮,
斯路漸。
湛湛江水兮,
上有楓,
目極千里兮,
傷春心。
魂兮歸來哀江南!
招魂
朱明 夜を 承(う)けて,
時は 以て 淹(とど)む 可(べ)からず。
皐蘭(かうらん) 徑を被(おほ)ひて,
斯(こ)の路 漸(ひた)る。
湛湛(たんたん)たる 江水よ,
上に 楓 有り,
目は 千里を 極(きは)めて,
春心を 傷(いた)ましむ。
魂よ 歸り來れ 江南 哀(かな)し!
※『楚辭』招魂:この部分は、『招魂』の乱の最終部分になる。
※朱明承夜兮:太陽(の明るさが)夜をうけついで。夜を日に次いで。日が続けさまに過ぎていくさま。
・朱明:太陽。日。
・承:うけつぐ。とどめる。
・夜:よる。
・兮:語調を整える辞。一句の前半の終わりに置いて、その前の音(語)とともに延ばして、後に続ける働きをしている。上代詩に多く見られる騒体。この部分の「兮」字音は、次のように並んで繰り返し、音楽的な效果を上げている。
※時不可以淹:時間は、とどめることができない。 ・時:とき。 ・可以:…することができる。もって…すべし。 ・淹:〔えん;yan1〕とどまる。とどこおる。久しい。
※皐蘭被徑兮:水辺のランは、小径(みち)をおおっていて。 ・皐:〔かう;gao1〕:沢。水沢。岸。沼沢。水辺の高地。 ・皐蘭:〔かうらん;gao1lan2〕 ・被:覆う。 ・徑:こみち。
※斯路漸:この道は水につかっている。 ・斯路:この(歩んでいる)道。前出の「徑」とこの「路」との関係は、乱の初めの「獻歳發春兮,汨吾南征,
蘋齊葉兮,白
生。路貫廬江兮,左長薄,倚沼畦瀛兮,遙望博。」から見て、「路」は屈原の征く路であり、「徑」は、彼が見ている江南の風景である水際の様子になろうか。 ・漸:〔せん;jian1〕ひたる。水につかる。ひたす。うるおす。
※湛湛江水兮:水を深くたたえた川の水の。
・湛湛:〔たんたん;zhan4zhan4〕水の深くたたえたさま。(水が)青く澄み切っている。
・江水:川の水の流れ。
※上有楓:上の方には楓がある。
・上:上の方。
・有:(…には)…がある。
・楓:・掌状の葉で、秋に霜にあえば、紅葉する樹。かえでの類。
※目極千里兮:非常に遠いところまで、見渡せば。
・目極:見渡す限り。極目。
・千里:非常に遠いところ。
※傷春心:春の物思いの心をいためさせる。
・傷:いためる。ここでは、構文から使役の意味になり、使役に読む。
・春心:春の物思い。
※魂兮歸來哀江南:魂よ、帰ってこい。江南は哀しい。
・魂兮歸來:魂よ、帰ってこい。『招魂』では、(上)帝が巫陽に命じて、巫陽が魂を招くために言うことばとして「魂兮歸來」と、計十回以上繰り返して言っている。また、「歸來兮」も六回ほど繰り返して言っている。祈祷の呪文(?)、この篇のキーワードである。
・哀江南:江南は哀しい。巫陽が招いて言ったことば。後世、杜甫が『哀江頭』「少陵野老呑聲哭,春日潛行曲江曲。江頭宮殿鎖千門,細柳新蒲爲誰綠。憶昔霓旌下南苑,苑中萬物生顏色。昭陽殿裏第一人,同輦隨君侍君側。輦前才人帶弓箭,白馬嚼齧黄金勒。翻身向天仰射雲,一箭正墜雙飛翼。明眸皓齒今何在,血汚遊魂歸不得。清渭東流劍閣深,去住彼此無消息。人生有情涙霑臆,江水江花豈終極。黄昏胡騎塵滿城,欲往城南望城北。」
と詠った。
遂に、日本人の誰一人として反証をあげてくれませんでした。
詳細な資料は「北タイ探検記」に残しています。
https://note.com/reuter/n/n338258a2521f