連日、北朝鮮の核開発と大陸間弾道ミサイルICBM発射の挑発について、分析記事が新聞紙上に掲載される。
的を射たもの、そうでもないもの。
どれが正しいというのが無いのが戦争理論である。
天才数学者はランドへ招へいされた
この分野の研究で一躍、脚光を浴びたのは若き数学者ジョン・ナッシュ博士。あの映画「ビューティフル・マインド」の主人公である。
彼が招聘された研究チームは米国の「ランド」。リサーチ&ディベロップの略称。
映画では、ランドで彼が何をしていたかは描かれなかった。今、またこの学問が陽の目を浴びている。
そのころランドでは、アメリカとソ連邦が核戦争を行うことを想定した戦争シュミレーションを行っていたのだ。
そこで、アメリカ空軍は、マグドネル・ダグラス社に対し、戦時中の軍事物資調達資金の残り1000万ドルをこの研究機関に提供し、この分野の第一人者たちを招聘した。
白羽の矢がたったのは、全米に数学の天才として名が知れ渡ったジョン・ナッシュと6才年上のロイド・シャブレー。
彼の「ゲーム理論」を戦略理論として、核兵器とミサイルによる米ソ開戦をいかに有利に戦うかを研究する格好の基礎となった。
いま、われわれが置かれている、米・日・韓対北朝鮮、ロシア、中国の対峙する構図とまったく同様である。
ナッシュ博士のゲーム理論の着地点は、ゼロサムゲーム(ゼロ和ゲーム)、いわゆる2人で行う、一方が儲かれば、もう一方が損失をこうむる式のゲームで、勝敗はある均衡に落ち着くという結論。これをナッシュ均衡という。
1950年の初めに行われたこの研究は、おおよそ10年ほど続けられたが、ナッシュ博士がいたのは最初のは5年間。
ランド研究所は米軍の最高機密に関与していたことから、博士はそれについては公にしていないが、いくつかの研究成果を発表している。
そして、このゲーム理論の研究で、アメリカの攻撃拠点が一ヶ所に集中し過ぎていることが、攻撃する相手に非常に有利に働くことが裏付けられ、この分野の研究はある程度成功している。
今でいう米軍基地グアムである。つまり、相手が叩く必要がある拠点が多ければ多いほど、攻撃漏れの確率は高くなる。つまり、反撃され負ける。では、基地は多ければ多いほど有利になるかといえば、、、。
北朝鮮ではなく、金正恩氏が「何をしたいのか」を、認識すればおのずと「解」がみつかる。
手持ちはどんなカード!
北朝鮮の国民が少しでも豊かで平和で幸せな生活を送れるようにしたい → 否。
すでに国民の3分の1は、人間扱いされていない。
「核心」とされる国と軍を支える層の子弟も海外で強制労働させられている。
ウラジオストックの近くで働く、北朝鮮の派遣労働に駆りだされた若者は「労働に耐えられない」とメモを残し自殺した。
年に7000ドルを北朝鮮に収めなければならない。5年間。
国民の7割以上が奴隷にされている。
国を和して永らえさせるているのではなく、独裁体制を維持することだけが目的である。
真実は、水爆も大陸間弾道ミサイルも保有していなかった北朝鮮は、50年間ずっと存続してきた。
誰も攻撃などしない。すべて、独裁体制を維持するためだけの軍事的緊張を演出している。
米国のトランプ大統領が何を言おうが、その発言を利用して、北は軍事拡大を永遠に続ける。
この場合、相手が攻撃する意思を示したかではなく、手持ちにどんなカードを揃えたかで、迎え撃つ戦術が決まってくる。
これを多くの評論家が見誤っているのではないだろうか?
ナッシュ博士は素数の謎について「リーマン予想の型破りな見方」というテーマで講演している最中に、深刻な統合失調症(精神分裂症)を発症した。彼がさまざまな病院機関で治療するかたわら、モルモットのような治療も行われ、その後、20年近く彼の明晰な頭脳と意識は混濁する。
しかし、30年経過し、彼は帰ってきた。
それを発見したのは数学者で物理学者のフリーマン・ダイソン博士。あのモンゴメリーと素数と原子核の関連を発見した同じひとである。
「あのナッシュが帰ってきた!」と彼は仲間に打ち明けている。
そして、ナッシュのゲーム理論は経済学などさまざまな学問の分野に取り込まれ、彼を晩年、ノーベル賞へと導いた。
20世紀後半に出現した数学の天才は、もっとも仕事ができる30年間を失っても、なお学問に輝くばかりの金字塔を打ち立てた。そして、「奇跡的に帰ってきた」ことが、学問の研究者だけでなく、多くの人々の心をふるわせたのではないだろうか。
また、そのちりぎわ。すごい幕引きだった。
ノーベル賞(2度目)の式典に夫妻で出席し、アメリカに帰国し、自宅へ帰るそのタクシーで事故にあい、2人とも亡くなった。まるで流れ星、シューティングスターのような星だった。そして、彼を支えた婦人も見事な人生を生きたとしかいいようがない。
ジョン・ナッシュ博士
ナッシュは1928年、電気技術者の父とラテン語教師の母の間に生まれた。彼の父は、神童だったがそれでもオールAの学生ではなかったナッシュを手厚く見守っていたという。ナッシュは絶えず読書をしていたし、バッハ音楽の全メロディを口笛で吹いたという。彼は全額奨学金で今のカーネギーメロン大学に入学し化学工学から化学に、さらに数学に専攻を変えながら19歳の年齢で学士と修士学位を一度に取った。当時ナッシュはドイツの偉大な数学者の名前にあやかって「若きガウス」というニックネームがつくほど数学ができた。卒業後は指導教授から「ナッシュは数学の天才だ」という一行の推薦状をもらってプリンストン大学院の数学科に入った。
当時プリンストン大学は数学と科学において世界の中心地と見なされていたが、アルベルト・アインシュタインと水素爆弾の数学的理論および現代式コンピューターの開発に寄与したジョン・フォン・ノイマンがいたからだった。特にノイマンは1944年にオスカー・モルゲンシュテルンと共にゲームの理論を発表したが、これは競争に対する最初の論理的・数学的解釈であったため多くの注目を浴びた。
だがその理論は1人が勝利すればもう1人は必然的に敗北する勝者1人占めのゼロサムゲームを扱ったため特殊な状況を除けば現実社会に適用することが難しかった。ところがナッシュは競争者間の非協調的関係でも相互間に利益をみることが可能な状況を研究したのだ。例えば企業間の競争、貿易交渉、議会での与野党間の交渉さらには生物の進化に至るまで多様な実際の状況に適用されることができるゲームの理論が確立されたのだ。このような「ナッシュ均衡」理論によって彼はたった27枚ほどの学位論文を書いて3年後に博士学位を受け、その理論でノーベル賞を受賞することになる。
ナッシュは1951年、MIT数学科に講師として就職しながら激動の人生を始める。1年後にエレノアという看護師とつきあったがナッシュは彼女が妊娠したこと知って彼女から離れた。1954年には同性愛者おとり取り締まりチームにひっかかって受難を体験し、1957年にはMITで物理学を専攻したアリシアと結婚した。1958年にはMITから定年保障を受けたが、わずか1年後に辞任した。
ナッシュの行動は常にほかの人々とは違っていたが彼の病的症状が問題になったのは1959年からだった。彼の精神状態は映画『ビューティフル・マインド』でよく描かれている。彼の症状は妄想と幻聴だったのだが、例えば赤色のネクタイを締めた人は全て自分に害を与えようとする共産主義者だと信じるというものだった。