卑弥呼は楚人 邪馬台国滅亡の理由
卑弥呼は日本人が後世に読んで付けた名ヒミコ。
真相は、
楚の女
楚の国姓は羋
羋の巫女(みこ)です。この記事発表後、この羋巫女 そのもののモデルを中国で発見しました。この記事はGoogle 検索にかかりません!
羋は楚王国の国姓。
羋はヒツジの意。
羋巫女 ビェーミフ
これが、意と音の両方を兼ね備えた文字列です。
魏志倭人伝を責任編集した陳寿は、3世紀末の西晋の史実家。外国人の名を記す用法にのっとり、奇異な文字列を使い注意を促し、異国のモノと知らせています。
しかし、卑には2つの別の文字を使ってさらに注意喚起していました。
田の下に十
この意味が解けますか?
田のなかにつっ立っているカカシだと書いています!
陳寿は一文字で事実を表していた
西暦239年 卑弥呼 親魏倭王称号を授与される。
邪馬台国は魏と関係を築く 魏の近くにあった国です。(これだけで十分でしょう?)
魏は 大陸の晋、呉、狗奴国 を牽制する必要があった。
中国大陸から見れば、外国の国名、地名、人名は通常使わない文字をあて、注意を促します。日本人が外来語にカタカナにするのと同じです。
ドイツ語でも同じ用法です。
例 身毒国 インドの古代の国にあてられた
卑弥呼(生年不明 -没年 242年~248年)は、『魏志倭人伝』等の古代中国と韓国の史書に記されている「倭国の女王」と称された人物。
魏志倭人伝によると、倭人の国は多くの男王が統治していた小国に分かれていたが、2世紀後半に小国同士が抗争したために倭人の国は大いに乱れた。
そのため、卑弥呼を擁立した連合国家的組織をつくり安定した。「卑弥呼は鬼道に仕え、よく大衆を惑わし、その姿を見せなかった。生涯夫をもたず、政治は弟の補佐によって行なわれた」と記されている
諱も不明で、239年に三国時代の魏から与えられた封号は親魏倭王。
247年に邪馬台国が南に位置する狗奴国と交戦した際には、魏が詔書と黄幢を贈り励ましている。
古代の日本で記述された「古事記」「日本書紀」には卑弥呼は登場しないため、日本国内では別の名前で呼ばれていたとされる?
それに相当する名は見つかっていた
卑弥呼:Bēi mí hū / Bei1 mi2 hu1
(俾彌呼:Bǐ mí hū / Bi3 mi2 hu1)
掖邪狗:Yè xié gǒu / Ye4 xie2 gou3
帥升:Shuài shēng / Shuai4 sheng1 スサノウ
難升米:Nán shēng mǐ / Nan2 sheng1 mi3
伊聲耆:Yī shēng qí / Yi1 sheng1 qi2
この中国発音が日本のWikipediaに書き込まれたのは北タイ探検記の発表後です。
それでも誰も辿り着けない。
新しい考古学上の成果が出てこないため、日本人の関心が極めて薄くなったためです。
突破口
西暦239年 中国大陸は戦国時代であった。楚王国は滅んで400年も経つが、あまりに大国であったため、モン族系の武人を輩出し下克上を繰り返していた
楚は全中国を平定できる国力と文化を兼ね備えていた。
戦乱を逃れ日本に次々と渡来。海運業者などが現れ、頻繁に大陸-半島-日本列島を行き来する様になった。
この時代に揚子江、黄河流域、広州沿岸から人々が追われた事を突き止めていれば、答えがわかります。
また、使われていた竜船のスピード、積載量、航行能力が分かっているので、無理矢理、畿内に邪馬台国を持ち込むのは、理論から外れます。
季節風、潮待ち、渡れる時期があるので、年に数度しかシーズンが到来しないルートもあり、長距離は竜船の積載能力からは無理❗️
シーカヤックで北九州ー木浦や釜山を航行すれば、答えが分かります。
竜船は座席2列座席で20人乗り。乗員はほぼ全員が漕手を兼ねます。
島々に水や食料の補給地が決まっており、停泊地は野営しなければいけません。
この生活を何ヶ月繰り返せば、畿内に辿り着けます?
商業経済文化の要衝地であるため人が集まり争いが起こります。
畿内では争うより、背後に広大なヒンターランドがあるため戦争はしないでしょう。
背後は日本最大の喫水湖琵琶湖が控える理想郷です
「邪馬台国 大いに乱れ女王を擁立する」
最後にモン族の巫女でお別れです
モン族とは中国分類では苗族(ミャオ族)と言われ、その王国は楚です。
女性は蠱毒を教わり、漢民族の嫁ぎ先で夫をわからないように毒殺し帰国する使命があります。
邪馬台国は西暦100年から150年頃に成立し、男性の王が他の国と争う日々が続く。しかし、70年から80年後、卑弥呼が女王になったことで、争いが落ち着いた。
その後、魏に使いを送り、卑弥呼は「倭国の王」として大国の皇帝からも認められます。しかし、平和は長続きせず、247年頃に敵対国であった狗奴国との戦が勃発。戦の決着を知ることなく、卑弥呼は亡くなった。
史実
西暦238年、難升米という人物を当時の中国で強い勢力を持っていた魏の国に派遣したところ、皇帝は歓迎して卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を与えました。こうして卑弥呼は外交によって倭の王としての地位を確立したのです。
彼が宰相です。特別な称号を貰っています。
卑弥呼はどのような一族に生まれ育ったのか?どうして、邪馬台国の女王になったのか、すべて謎のままなのです。邪馬台国すらどのように滅んだのかもわかっていません。
注(狗奴国・海運族・背後に呉王国により滅ぼされていた)
卑弥呼の生活については『魏志倭人伝』に少し記述があります。召使い1,000人が卑弥呼の世話をしていて、男性が一人だけ出入りを許され、飲食物を運んだり、卑弥呼の言葉をみんなに伝えていたそう。弟が政治を助けているが、女王になってから卑弥呼の姿を見たものは少なかった。
しかし、いまだに魏の皇帝が卑弥呼に贈ったとされる金印は見つかっておらず、場所の特定には至っていません。邪馬台国は一体どこにあったのか?
Beyond Northern Thailand Expedition 3
into BLUE
上の記事を導くために残していたメモ ただの資料です😂
#卑弥呼は楚人 #卑弥呼 #邪馬台国 #北タイ探検記 #アニメ #探検家
邪馬台国の謎
楚人の都市国家Ⅱ 邪馬台国
北タイ探検記66 山陰道-山陰道
春秋戦国時代の楚について
楚の国は、国姓が羋、氏が熊と言われています。
この記事は北タイ探検記Ⅲ into BLUEの記事です。avatar the way to
water world に挑戦しています😂
こちらは空想ではなくドキュメンタリー。どう考えてもこちらの方が凄いのだが、問題がある。それは製作費だ😭
※(楚人が出雲大社を建立した証拠は北タイ探検記1巻に掲載)
揺るがない事実です!
中国文字 楚の国姓
羋
発音 Mǐ
意味 ひつじ
羊の鳴き声そのものが読みだった! 日本人は発音をビに変えて意味を見失いました。ヒツジ特有のビとミェーのどちらにもとれる発音です。
外国語は日本語発音にうまく落ちないのが当たり前です。
日本人がタイ語を喋っているのは聴き取れます。しかし、タイ人が喋っているタイ語は聴き取れません。発声できない言葉がたくさんあります😂
英語耳というのを聞いた事ありませんか? ネイティブでない英語を喋る人の言葉ばかり聴いてる人は英国人の言葉は聞き取りづらいのです。
姓と氏の使い方
父親の名に一字を何代にもわたって使い父系を明らかにするモン族-楚王国
周文王の時 季連の苗裔(遠い末裔)に鬻熊という者がいた
鬻熊の子は文王に仕え蚤卒(早死にした)
その早死にした子の名前が熊麗
次に熊狂
その子に熊繹
熊繹は周の成王の時に文王、
武王と仕えた跡継ぎ達の名を挙げ楚蠻に封じられる
子男の田地をもって封じられ姓は羋氏、丹陽に居した(熊繹當周成王之時,舉文、武勤勞之後嗣,而封熊繹於楚蠻,封以子男之田,姓芉氏,居丹陽 の後嗣。
熊繹は鬻熊の名からそれを氏とした
備後のビとミは国姓から
びんご【備後】
旧国名の一。山陽道に属し、現在の広島県東部にあたる。古くは吉備
国の一部。備州。
出雲の真南に進むと、
備前 備中 備後 美作 中国一塊
三原市? 熊野
石見?
一地域に集中している
三重 本州一塊
能美平野
熊野 モン族伝説徐州渡来地
肥前 肥後 九州一塊
吉備の国の由来
これは黍の収穫量が多かった事に由来すると言われています。が、そうではない。
他の国名を見ても、粟に由来する阿波国や木の国が転じて紀伊国となった例などもあり、吉備=黍?
岡山県内には大きな古墳が数多く造られている事から、出雲やヤマト王権といった日本を代表する勢力に匹敵するような巨大な力を持っている国だったと考えられています。
後に吉備の国は三つに解体され、備前、備中、備後の国に分かれました。
備前、備中、備後の由来
現在でも広域な地域を表す言葉として用いられている、旧国名である『備前』、『備中』、『備後』。
これは吉備の国を三つに分けた際の、東部が備前、中央部が備中、西部が備後です。
吉備の国を分離した際に、『前つ国』、『中つ国』、『後つ国』と呼んだことから、国名に定着しました。
現在では備後の地域は笠岡市用之江地区を残して、広島県(福山市周辺)へ移管されています。
三つの吉備津神社の謎
吉備津神社は元々は吉備の国の総鎮守の神社でしたが、吉備の国が三つに分けられた際にそれぞれの国へ分霊されています。
それが現在の岡山市北区吉備津にある備中国の吉備津神社(元々の吉備津神社)、岡山市北区一宮にある備前国の吉備津彦神社、そして福山市新市町宮内にある備後国の吉備津神社です。
山陰道道→山陽道が楚王国のモン族(苗族・ミャオ族)が渡来して来た場所です。
越人の渡来ルートは楚人の支配を嫌い、富山・新潟へ向かいました。越後、越前がその名残りです。越南国とはベトナム、そのさらに北にあった都市国家(沿岸部)は全て越の国でした。これを疑う人はいないでしょう!
魏志倭人伝を見ると、北九州から出雲へ、楚の民は移動しています!
理由は宍道湖(喫水湖)を発見したからです。
雲南のテン池も大きな喫水湖です。
そして、インドネシアのトバ湖も喫水湖、
さらにスラウェシ島のブギス族の都市国家も小さな喫水湖2つに挟まれていました。テンペ湖とシデンレン湖
最後に気がかりなのは山口県の長州
楚王国の楚の読み、発音はCHU
この長州藩の思想的な「孝節」は日本人の精神、靖国神社にまで到達していました。
唯一、考えられる地名が長州です。地政学的には有力なので調査中です。しかし、答えはないかも知れません。
極めて薄い
熊襲❗️ 国姓が2つも重なっている国名です。
背後に琵琶湖という日本一の喫水湖がブルーオーシャンとして広大な未開地があるのになにも争う必要が見当たらない❗️
畿内説を退ける2つ目の理由。
1つ目は竜船の航行能力です。
20代の青年、この航行軍を行えばボロボロになってしまいます。戦闘すら出来ず、死者が出るでしょう。
理由3 半島から移民が近畿を目指すか?
これだけ並べば高校日本史で決着です。
同時に邪馬台国 滅亡のワケ❗️
精査表
以上の理由で卑弥呼はひとりではなかったのでは? 卑弥呼の卑には2つの当て字が存在する。深い意味はない。ミスではない故意に書かれています
証拠 別論文
了
邪馬台国が滅亡したのは西暦280年ごろ。
理由は朝鮮半島から「牛のよだれの如く敗残軍と移民が押し寄せた!」。
最後に邪馬台国が滅亡した本当の理由