ReuterJapanNews’s Dialy

バンコク駐在記者。ヤンゴンからチン州ミンダットに転戦。国際NGOと連携して国軍の攻撃から逃れる難民を救おうと頑張っています。

全人類の生存賭けたウルトレイア 6万5000年前

f:id:reuterjapannews:20180106090948j:plain

誰もが最初は簡単に解ける謎だと思った。

6万5000年前、アフリカ東岸を旅立った150人はアラビア半島をめざした。

なぜ、彼らは苦難のウルトレイアに挑んだのか。

どうやって紅海を渡ったのか? 10万年に1度、開くかどうかわからない「悲しみの門」がどうして渡れたのか、それは今も謎のまま。

 

7万年前のスマトラ島の大火山噴火だけでは説明できない。

6万5000年前、アフリカの大地溝帯で全人類はたった1500人までに減っていた。熱帯雨林が消滅する中、うずくまるようにして息を潜めていた。

絶体絶命。

絶滅境界線上を歩んだ地球家族の物語!

われわれは褐色人種だったのだ。

 

 

スタンフォード大学の研究者による個別の研究を精査したところ、人類は6万5000年前には全世界でわずか2000人にまで激減、消滅しかけていたことがわかってきた。

 

一体、6万5000年前に何が起きていたのか?

2005年に開始された遺伝学によって人類学を研究するこのプロジェクトによると、ミトコンドリアの追跡によって、現在の人類は約20万年前にアフリカに住んでいた「ミトコンドリア・イブ」と呼ばれている単一の母親の子孫であることがわかっており、約6万年前から全世界へ人類の分散が始まっている。しかし、このミトコンドリア・イブと全世界への分散までの間に何が起きたかについてはほとんどわかっておらず、謎に包まれたまま。

 

最近の研究によると、南アフリカのKhoi族とSan族の人々は9万年前と15万年前にほかの人々から分岐したような形跡がミトコンドリアの解析で判明。どうやら、石器時代に先だって小さな人数の集団に分離された後、一緒に戻ってきたりして数が増加、その他の地域へこの時期に拡散し始めたらしい。さらに13万5000年前と9万年前に東アフリカでひどい干ばつが発生、そして7万年前には極端な気候変動によって人類はついに消滅の危機に瀕するほどの少数にまで激減し、一時は2000人ほどになっていた。

 

 

 

われわれホモサピエンスがアフリカを離れたのはおおよそ6万5000年前。それまで、脱出に成功したグループはいたが、その子孫たちは現存しない。現在のわれわれ人類の遺伝子を調べたところ、行き着いた回答は、アフリカから脱出に成功したのは、ただひとつのグループに行き着いたのだ。その数150人。

 

誰がどうやって、どのルートをたどったのかは正確にはわからない。しかし、われわれ人類はすべて彼らの子孫なのだ。

当時、アフリカを脱出するルートは2つ存在した。ひとつはナイルに沿って北のエジプトをめざす北ルート。もうひとつはアラビア半島へ渡る最短だが、水が手に入らない650キロの砂漠を横断する死の南ルート。

 

成功したのは、アラビア半島へ渡った150人のグループ。ただ、1度だけ。それ以外のグループは子孫を残せなかった。つまり、失敗した。注)北上ルート説については後述。

 

だが、それよりずっと昔に成功したホモサピエンスの仲間がいた。ネアンデルタール人やハイデルベルゲンシスらだ。彼らはアラビア半島には渡らず、エジプトから北ヨーロッパをめざした。彼らの人骨の出土地からわかった。

 

ではなぜ、われわれホモサピエンスは、アフリカを脱出しなければならなかったのか?

今となっては推論でしかないが、逃げなければ生き残れない脅威が迫っていた。

 

 

f:id:reuterjapannews:20171102084317j:plain

 

アフリカ西部を縦断する大地溝帯

 

OUT of AFRICA

ルートを探る。

 

この話を進めると、どんなルートをたどったのかがわかる。それは想像を絶する苦難の道だった。6万5000年前のアフリカ、現在のエチオピア、タ●湖など水源が点在し、ナイル河の水源地である。地形は複雑で、熱帯雨林が生い茂り、高さ50mを越える樹林がうっそうと茂っていた。

大地溝帯が南北に走り、高低差があり、ひとが隠れ住むにはうってつけの場所。ちなみに現在の首都アジスアベバの標高は2400m。気候は4-9月が雨季、10-3月が乾季。朝は冷え込みが厳しく雹が降ることもある。

ここに住むひとはガーゼを二重にした3m以上ある綿の布、ガビ1枚をきように全身をまとっていた。

今では家畜の牛と荷役用のロバがほとんどだが、かつてはアフリカを代表するほとんどすべての動物が闊歩していた。これほど急激に動物の棲息地域が後退したのは熱帯林の消滅が理由だ。

エチオピアの首都アジスアベバにはおとなしくなったハイエナに野生化した野犬の群れ、牛にロバ、凶暴化した人間が見られる程度。首都といっても標高が高いので、日中と夜間の温度差が20度もあり、特に朝夕の冷え込みは厳しい。

 

エチオピアの湖がある土地からアラビア半島へ行く道はない。砂漠を越えるのだ。砂漠といっても砂ではなく不毛の荒野で雨が降らない水のない世界。

距離にして650キロ。いくら水を担いで行っても、足りない。

ラクダのような生き物の力を借りなければ、水と食べ物は運べなかったはず。一日最大で50キロ歩ければ相当早い方だろう。普通なら30日以上はかかる。

 

人間だけで歩けるだろうか? 

 

 

 

 

実は今でもこのアフリカ脱出は続いている。その現実を知るとみな驚く。エリトリアエチオピアソマリアから単独、あるいは家族、グループで内戦や襲撃を逃れ、そして仕事を求めて、今も人々はこのルートを歩いていた。

 

そして、その中の数%は途中で行き倒れている。水が完全に切れたのか、溶岩流が固まった岩のうえで横たわる死体。男の死体、若い女の死体。それも2,3人ではない。10体以上はある。

まだ、男女の区別がつき、20-30才代だろう。手や脚の肉は捥がれているが形をとどめている。

そして、墓らしきものも立てられている。

 

 海まであと少し、紅海が見える5-6キロ手前。ゴールを前に息絶えた人々だった。

 

この横断ルートは、エチオピアからジプチまでの650キロ。貧しいアフリカからの難民は、毎年10万人がこのルートをたどってアラビア半島へ渡ろうとする。

だが、ジブチに無事たどりつけたとしても、そこには仕事はない。さらに彼らは船に乗って紅海を遡り、オマーンをめざすのだ。

6万5000年前と現在の難民が見る景色はどれほど変わったのだろうか?

そう考えずにはいられない。

エチオピアアジスアベバから紅海が見えるジブチに行く途中、テンダホ農場が突然、出現する。インドとの合弁で砂漠に巨大なプランテーションをつくり、サトウキビ農場をやっていた。500キロ平方メートルに5万人が働く。

だが、地元のアファール族の娘はいくら働いても日本円に換算して月に2000円しか稼げないという。アジスアベバでもここ20年ずっとこの賃金だという。もっと昔からかも知れない。

 

月給2000円、1日働いて80円(日曜日を休んで)。これではおんなたちは、身体を売った方がましと考えるわけだ。彼女たちは生涯1度もアフリカから外にはでられない。よほどの幸運に後押しされない限りは、、、。

 

一番多いのはアラビア人との混血、次いでギリシャ人、イタリア人など。アジスアベバには中国人か韓国人、あるいは日本人との混血もいる。

 

 

近日、新刊発売します。