エラトステネス30代前半、従者の4人は20代である。なぜ、年齢がわかるかを言えば、1919年にアインシュタインの一般性相対性理論を裏付けるための日食の観測に派遣されたのが30才になったばかりのエディントンだ。王立学術隊はイギリスで編成され、西アフリカの赤道ギニアに近いブリンシベ島へ向かう。
この話は後述するが、この2つの観測隊がもっとも天文学的な成果を成し遂げた人類史上の金字塔である。
アレクサンドリアの隊長エラトステネスはこの旅に先がけ、1つ大きな仕事を達成していた。それはアレクサンドリアの大きな通りを真っ直ぐ夕日に向かい沈みきるまでの距離を測り、街の距離を確定する仕事だ。これは同時にシエネへ遠征する測量隊を組織するためでもあった。
太陽が海に沈みはじめると同時に歩き出し、そして、沈みきるまでの間に何歩、進めるかを測るのだ。これにより、ほぼ、同じ歩幅で歩ける2人を選び、この2人に平均値をだすことによって、歩数の正確性を増すのである。選ぶにあたってひとつ条件があった。それはエラトステネスと同じ歩幅であること。ふたりのうちのひとりが倒れたらエラトステネスがその役を交代できるからだ。
彼は世界最高学府の学長であると同時にこの測量隊の隊長で今の大学教授や学長とイメージがまったく異なる。まさに命がけの学術研究を行っていた。
エラトステネス後に生まれたヘロドトスが記述するところによると、「北方のひとは1年の半分を寝て過ごしている」と言う。太陽の角度が北へ行けば角度を増し、斜めに刺すことをエラトステネスは見抜いていた。
そして、子どもの時から見ていた海の風景。港に帰ってくる船は最初にマストの先端が見える。そして、帆がだんだんと高さを増して、そして、最後に船体を現すのだ。このことは地球が丸い球体ではないかと感じさせる第一ヒントだった。
そして、月が三日月から半月を過ぎるあたり、太陽が地球の影を月に投影する。その形は丸いのだ。
これだけではない、古代バビロニアの数学をエジプトの天文学をマスターしたエラトステネスには、もはやこれは動かしがたい事実だった。
「どうやって、地球の周囲を計算するのですか?」
何人もの学生に聞かれるたびに館長は地面に棒で絵を描いてみせた。それがこれ。
太陽光はアレクサンドリアでもシエナでも平行する。夏至のアレクサンドリアの太陽の影と棒の角度(7.2度)を求めると、アレクサンドリアとシエナの距離(5000スタディオン)さえわかれば地球の外周がわかる。
エラトステネス
世界で初めて地球の外周が測定されたのは、紀元前240年頃のことです。
その人物が、天文学者で数学者でもあったギリシア人の「エラトステネス」。
エラトステネスは、世界で初めて地球の大きさを測定したほか、素数を判定するための方法である「エラトステネスの篩(ふるい)」を発明した人物としても知られています。
また、当時のプトレマイオス朝の首都アレキサンドリア(現在のエジプトにあった都市)で「ムセイオン」という名の博物館の館長も務めていました。このムセイオンというのは今の「museum(ミュージアム)」の語源にもなっています。博物館というより大学・蔵書館の機能を備えた世界最先端の組織だった。
ガウスがいたドイツの大学やアインシュタインがいたプリンストンの様な知の殿堂である。
それはアラビアに襲撃され消えた
また、この本は数学の威力を世界に知らせた初めての事件として、日本語で書かれています。Amazonに消されて原稿が不明。Appleで無料で読める様になっています。
地球の外周を測量