ReuterJapanNews’s Dialy

バンコク駐在記者。ヤンゴンからチン州ミンダットに転戦。国際NGOと連携して国軍の攻撃から逃れる難民を救おうと頑張っています。

プノンペン 愛と身請けの境界

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 カンボジアにUNTAC(カンボジア暫定統治機構)隊が平和維持活動のため、長期駐留することになり、ベトナムから大量に若い娘が連れて来られた。カネが稼げるという噂を聞きつけ自分からやってきた娘もおおぜいいた。

ベトナム社会主義国で、監視社会である。公安警察ににらまれると置屋は商売はできない。そのため、売られれた娘は公安、バイタク(運転手)、置屋に心づけを払わなけてば、お客をとれない。それに置屋の女将への借金の返済などで最初から半分のカネを公安など3方にとられ、いったいなんで身体を売っているのかわからない。

ある日、はっと気づいたベトナム娘は、お客のお金を全部ほしいと思い、

「売ったのはわたしの身体。だから、当然よ」といって国境を越えてカンボジアへ渡ったのである。

 1990年末から2000年代のはじめまで、スワイパーやNAVYなどプノンペン均衡にあった売春宿の多くはベトナム娘ばかりだったのだ。

 

 

 

 カンボジア人をクメールという。ベトナム人ラオス人とは明らかに顔が違う。ベトナム人ラオス人の肌が蜂蜜色なのに対してやや褐色を帯びている。彼らのルーツには様々な説があるが、北京の某国立大学である書物からその事実がわかったのだ。

西暦1405年にティモールが死去。中国の永楽帝が中国を支配し、その後、世界へ永楽帝の大艦隊を送り出している。その史実のなかに、1382年、雲南、いまでいうベトナムラオス、中国の国境が接するところで、チベット勢力と永楽帝の軍が最後の決戦が行われ、永楽帝が勝利した。

 チベット人の最後の砦は雲南昆明にあり、つかまった少年たちは永楽帝のもとに送られ、男根と玉を切り落とされ宦官にされたのである。

そのなかで頭角を表わしたのが鄭和である。

 

この逃げたチベット族のひとたちがクメールにすりかわったのではないかというのがわたしの説だ。そして、ベトナム人は中国南部に住んでいたもともと中国の民。キン族と呼ばれるが、彼らも同じように永楽帝の軍に攻められ、峠を南へ越えて今の世界地図の版図に収まったのではないか、、、。

 

 

 

 話は現代へ。

1998年ごろのプノンペンはホテルやゲストハウスが今ほど、開業しておらす、日本人が集まるキャピトル1-2や、オークラなどに情報が集まっていた。そこを舞台に繰り広げられたのが、日本人青年によるbベトナム娘やクメール娘の身請けである。

当時、円が強く、身請け額は500ドル余り。

わずか5万円で彼女を幸せにできると信じた日本人は何人もいたのだ。

23才、26才から30才、40-50才と上に行くほど純粋さは失われ、単に囲うだけで、1人で10人以上を娶った男もいる。そう、玉本氏である。

しかし、青年の場合は同情が愛情に変るまでに時間はかからい。いや、それ以前に日本でほとんど恋愛経験がなかった彼らは、14-15才のベトナム娘を不憫と思い、初めて会ってから2-3日以内にぽんとカネを払い、嫁にするつもりで身請けしてしまった。

だが、問題は彼らもほとんど、ベトナム語は話せないし、彼女たちは英語が話せない。ほとんど意思の疎通なして、日本の男たちは、相手の思いなど顧みない、ジャパンマネーによる禁じ手を炸裂させたのであった。もちろん、まわりの大人たちはあまりに出会って期間が短いので引きとめる。

 

それには一切、聴く耳をもたず、カネを握り締めて、置屋をめざした。

「きたな。1500ドルだ」と置屋のお婆。

「えっ、500ドルじゃないの?」

「いいや、本当に請け出すには1500ドル払いな!」

恋に舞い上がっていると足許を見透かさ、置屋のおばばは、法外な値段を言い放った。

だが、すでに身請けを決めた時点で、勝負は決まっていた。日本で貯めたカネは70万円以上あったから、青年は15万円を支払ったのだった。

彼女の名は、マイ。14才。痩せてはいるが、これからもっと美人になることは、誰が見ても明らかだった。身体にバネがあり姿が美しい。

 

どうやら、青年は2度、彼女を抱いただけで、決断したのだ。

それほど、彼を狂わせる何かが彼女にあったのだろう。

 

不思議である。人間は意志が通じなくても恋に落ちるものなのだ。これを恋と言えるかが問題だが、未婚の青年ならそう思い込めなくもない。

「いやー、違いますよ。ただのロリコンの暴走です!」。

40代の日本人は笑いながら教えてくれる。

「いいですか、相手のベトッ娘は、男が誰であれ、例え60過ぎでも身請けされたら、着いて行かなければならない。それです。しばらく、男と一緒にいたら、その男の甲斐性が見えてくる。それで、あんちゃんらは、娘に逃げられるんですね」。

「何がいけなかったんでしょう?」

 

「娘はおとこに惚れていなかった。幻滅させられ、またしても逃げるわけですよ」。

 

 

 

 

 話しは1990年ごろバンコクにあった日本人宿ジュライホテル。実にいかがわしいホテルだった。これが閉館したため、そこにいた怪しい面々が、その先にあるもっと怪しいアジアへと流れていったのだ。orz..

 

それはまるで、雷鳴一発でどしゃぶりになる前のカンボジア人たちのように奇声をあげてわれ先にと、、、。

 

 

 

ある旅人たちはタイ最北部、ミャンマー国境に接するメーサイ。

もうひとグループはパタヤチェンマイ

そして、もっとも遠くへ流れ着いたのが隣国カンプチアの首都プノンペンである。

正しく言えば、三方ではなく四方、五方向ぐらいに散りじりに分かれたらしい。

 

「あの、これでいいんでしょう?」

「うん、それでこそカンプチアン・ライターだよ!」。

 

前回の「美しきクメール娘」と「タイに移住しよう」(既刊)を読んでくれた知人が、なぜ、こんな狂おしい日本人たちがそこにいるのかをくわしくレクチャーしてくれた。

 

「うれしいなぁ」

「読んでくれたんだから、敬意を払ってちゃんと聞きましょうよ!」

「でもな! あそこ」

見るとまともなのは上着だけで、たぶん、途中でカネが尽きたといしかいいようがない格好で、ワタミに現れた澤田さん(44才)。下は短パン、ゴムゾーリ。

あたまもきっと散髪の途中でカネばらいが悪くて、やめたみたいな髪型をしている。

とてもまともなひとには見えない。

 

この澤田さんの話をベースに取材を進めて、はたして大丈夫だろうか? 編集スタッフは疑心暗鬼にかられながらも、現地で肉付けして行くことに。

なぜ、今のカンボジアがこうなっているのか? 

どうして、首都なのに狂おしいまでに愚かしいひとびとが集まり、福田マリ、いや、吹き溜まりのように性格の悪い街になったのかを紐解いて行きたい。

 

 

 

 

 

もう少しジュライホテルについて。

バンコクの中華街ヤワラー東に7月22日ロータリーがある。当時から奇妙な外国人が集まる場所で、プッシャー、売春婦などがたむろする危ないスポット。ロータリー真ん中に公園があり、その正面にジュライホテルが建っていた。

観光以外の目的で集まる外国人や娼婦が放つすえたホテルの住人の多くはなんとわれらが同胞の日本人。

このホテルは殺人があったり、有り金50万円すべてを従業員に盗まれたり、さらにドラッグで刑務所に送られたりと、世も末のようなとんでもない唐人窟、泥棒宿だった。はっきり言えば1890年ごろウラジオストック

にあったアナーキーな唐人窟の方がまし。

しかし、アジアのもっと滑稽な宿から帰ってきたバッグパッカーやファッキンパカー、ジャンキーにとってそれはそれは居心地のいい赤十字救済施設のように写ったらしい。

 

それではジュライから旅立った、各分隊を追って、その棲息者がうろ覚えの現実をドキュメンタリーにまとめて「世にも怪奇な物語」をつむぎだそうと思う。

 

 

 

 

第1隊 プノンペン

500ドルで永遠の幸せが買える?

17才を身請け

 

 

1998年ごろ

 

幻の国に行くこと3度目にして、置屋から女の子を身請けしました

わかる人にはわかるスワイパー十字路にある喫茶店から斜め前にある置屋

そこで買った女の子をホテルにつれて帰るなり「500ドルくれたらずっと 一緒にいられる」と耳元でことあるごとにささやくのです。貧乏旅行者にとって 500ドルは大金、無視していました。あきらめたのか数日後には言わなくなりました。

しかし「たった5万円ちょっとのためにこの子は売られてきたのか」と悲しくなり ました。